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2018年4月17日火曜日

竹田青嗣×苫野一徳「全面実施目前、『道徳』の本質を問う!」(3)

ルールの本質とは


苫野 そのルールの話で思い出したのですが、最近の教育界でホットな話題の一つが、大阪府立高校で起きた黒染め強要問題です。

これはもともと地毛が茶色い女子生徒に、染髪は「生徒心得」で禁止されているからといって、ずっと髪を黒に染めさせ続けたという問題なのですが、もうこれは完全に習俗のモラルでやっているわけですよ。


竹田 それって、外国の子が来たら、どうするのかね(笑)


苫野 報道によれば、その高校が生徒の代理人弁護士に対して言ったのは、「金髪の外国人が来ても染めさせる」だったそうです。これは完全な人権侵害ですね。

こんな、習俗の慣習に染まりきった学校がモラル教育なんてできるわけがない、と暗澹たる気持ちになります。


竹田 そう、モラル教育ではなくて、ルールの本質を少しずつ教えていくことが根本だよね。

この社会がフェアなルールという原則のもとで成立していること、このことは近代社会の教育の基礎であり、この土台の上に様々な教科もある。

近代教育のカリキュラムの哲学的な前提は、まず特別な道徳的や宗教的学科ではなく、誰もが検証できる実証主義的学を教えること、これが、個々人ができるだけ対等に社会の競争ゲームに参加できるための土台となる。

ルール教育は、このフェアな競争の原則を教えるためのもので、このことで人間は、共同体的な、ローカルなあるいは習俗的ルールに抗う「正当性」の感度を身につけることができる。

ただしこのときに原則がある。その黒染め強要問題の難しい点は、ではそういうローカルルールは全部なくしたほうがいい、というわけではないという点だね。

哲学的には、子どもは必ず家庭の中に産み落とされ、その家庭の中ではじめのルールを与えられ、これを大なり小なり受け容れて、関係を作る能力を育てて社会的人間になる。

このとき、はじめは親や世間や学校が子どもにルールを与えるほかはない。とくに家庭のルールははじめ親が与えるしかない。そのルールがよいルールかどうかは、外からは口出しできない面がある。かなり問題あると思えても、はじめのルール権限は親がもっていて、それを外部からあれこれいう権限は誰ももてない。


苫野 よっぽど子どもの自由を侵害していない限りですね。


竹田 もちろん、虐待までいくと法的ルール違犯だからそれは社会的な禁止の対象になる。

ただルールというものは、はじめは子どもはまず親のルールを受けいれ、次に学校のルールを受けいれる。

つまり子どもははじめは上から与えられたルールを守る能力を身に付けていくけれど、大事なのは、複数のルールを経験する中で、子が徐々にルールの本質というものを理解するようになるということ。またそうなるような仕方でルールを与えないといけない。そのことで徐々に、自分たちでルールを作れるようになって来るからです。

規律的な原則でルールを与えると、子どもは自分が上の立場になると必ずルールを規律的に下に押しつけるようになる。よくない体質の体育会の伝統のようになる。ルールは、根本は人間どうしの相互承認に根をもつ、という感覚がだんだん理解できる仕方でルールを与えることが大事。

ただそのときの原則は、いきなり子どもの「自由」をすべて認めてはいけない。子どもが少しずつ他人の自由を認め、もし侵害したときにはその責任をとるという自覚と能力が身についてくる度合いに応じて、子どもにより大きな自由を与えていく。つまり他者の自由を承認できる感度と意志の形成に応じて、より「自由」を認めていく、という原則です。

これが子どもがルールの本質を知っていく重要なプロセスになる。いきなり自由を与えすぎても、逆にルールを規律的に与えても、ルールの本質は理解されない。ルールの本質が理解されないと、みなで正しくルールを作りあうということもできないわけです。

ただ実際問題としてはその線引きがむずかしくて、いつでもはっきりここからはOKという答えは出ない。それでも、ルールの与え方の原則をまず大人の側が共有していることが大事だよね。これはパターナリズムではなく、大人の市民的共同体による子どもたちに対する存在配慮であって、そもそもこれを欠くと社会というものが成り立たない。

苫野 ルールを守れるということと、作り合えるということは、市民社会の一員になる必須の教養ですからね。

ところが今、学習指導要領では、ルールを共に作るというような契機がほぼないんですよ。

小学校、中学校の学習指導要領を読むと、ルールを守るとか、法を遵守するとしか書いていないんです。これは大きな問題だと僕は思っています。

さっきも言ったように、日本人の多くは、ルールの本質をわかっていなくて、ルールは与えられるもの、意味はよくわからないけれど、従わないといけないもの、という発想がすごく強いと思います。

これは僕は、教育の責任が大きいと思っています。多くの子どもは、ただただルールに従っておけ、と高校を卒業するまでずっと教育されていますから、ルールというものは従わないといけないもの、あるいは従っておけば楽なものぐらいにしか考えていないように思います。

また、これもさっき言いましたが、ルールは自由を奪うものとか束縛するものというイメージも強いです。でも本来、ルールというのは自由を束縛するものではなくて、みんなが自由になるためのものです。

この発想がない一つの大きな理由は、やはりルールを共に作る経験が圧倒的に不足していることだと思っています。

よく若者は政治に興味がないとか選挙に参加しないとか言われますが、それはもう当たり前のことです。ルールは作れるとか、学校は変えられるとか、この社会は自分たちで変えられるとか、そういう発想を持てないまま、ただただ、与えられた環境の中でサバイブするのが自分たちの生き方だって考えるように育てられてきたら、市民なんて生まれないですよね。

あ、ちなみに、「市民」というのは、小平市民とか熊本市民とかいうことじゃなくて、この近代市民社会の構成員、担い手ということですね。この前学生たちに言ったら、勘違いされたので念のため(笑)

市民教育とかシティズンシップ教育とかいった言葉も、教育学部生や教育関係者でさえ知らない人が多いことを知って、問題だなぁと感じています。

と、それはともあれ、公教育は、ルール共創教育とでも言いますか、ルールを共に作り合う経験をたっぷり保障する必要があると僕は思っています。ヨーロッパなど諸外国の例なんかを見ても、小学校1、2年生くらいからでも全然できます。


竹田 要するに、少しずつ自分たちで決めていく、つまり自治を拡大していく。

ただ、どの領域でそれを委ねるか、またその自主的ルール決定が相互承認のもとに行われているかどうかは、あるところまでは大人が配慮してチェックする必要がある。


苫野 それはそうですね。


竹田 だから、いきなり中学生になったので、「では、相互承認に基づいてみなで自己決定することにしましょう」と言っても無理があるので、小学校から、徐々に、これについてはみなで相談して決めていくという場面をセットしておく。

はじめから完全な相互承認は難しいし、子どもの世界では、力の秩序があってガキ大将ができるということもそれなりに経験する必要がある。それは社会のミニチュアだから。

はじめはルールが与えられルールを守る経験と能力を育てる必要があり、その中で、少しずつ自分たちでルールを作る経験を増やすことで、はじめてルールというものの本質が理解されていく。

これはだから学校教育の中で長期的なプロセスとして準備されないといけない。道徳教育もそういうことが原則になるといいんだけどね。

苫野 多くの学校を見ていると、そもそも今あるルールの問い直しさえもほとんど行われずに続いているものがたくさんあるんです。

たとえば、無言清掃とか無言給食なるものが多くの学校でやられていますが、これは多くの場合、教師や学校が子どもたちを統率・管理しやすくするためのルールになってしまっていると僕は感じています。

でも、民主主義の根本には、本来、豊かで自由なコミュニケーションがなければなりません。

アクティブ・ラーニングと言われる今でさえ、授業中は黙って座って先生の話を聞けと指導する学校が多い中、さらに掃除や給食の時間でのコミュニケーションまで奪うなんて……

絶対ダメとは言いませんが、少なくとも問い直す必要があるのではないかと思います。


竹田 哲学の視点から言えば、道徳教育の前にまず近代社会における教育の本質がある。いまの道徳教育は、コンセプトからして「社会」のではなくむしろ「共同体」の教育ですね。

近代教育の本質は、一人ひとりの人間を近代社会の市民として成育させるという点にある。

そのための軸が二つあって、第一に、できるかぎり対等な仕方で社会競争に参加できるようになるということ、次に、この社会の成り立ちの基本原則、つまり相互承認の上でこの社会が営まれているという原則を理解していくことだね。

つまり共同体の一員としての教育以上に、市民教育ということが根本です。

しかし、この市民教育の根本原則が、今の教育界でほとんど理解されていないとすれば、これはとても大きな問題ですね。

苫野 はい。

竹田 自分の田んぼに水を引くわけではないが、先生になる人には、まずルソーとかヘーゲルを必須の教養として学んで欲しい。

教育学というとまずデューイだったけれど、でも、デューイでは弱いんですよ。近代社会それ自体を否定するような立場を取らないかぎり、近代社会の教育、市民教育には根本原則があり、この根本原則からきちんと考えて展開していけば、何が教育にまず必要であるか、どのような目標が根本でそのためにどのような条件が必要か、といったことが明確になり、そのことで一定の大きな合意というものが、必ず取り出せるはずだよね。

まあ、それが苫野君が少しずつやってきた仕事ですね。


苫野 はい。ただ、デューイはちょっとだけ擁護もしたいんです(笑)彼は、学校というものは民主主義の土台であるべきだと『民主主義と教育』(→解説ページ)という著作を残しているくらいですから。

デューイは、学校の環境の中に、「自由な探究」と「自由なコミュニケーション」を保障しない限り、子どもたちがお互いの自由を認め、自由になっていくことはできない、と言っていて、それは一つの慧眼です。

まあでも、ルソーやヘーゲルの深い原理が入ってしまうと、デューイの社会哲学や教育哲学は、どうしても隔靴掻痒の感があるんですよね。元々はヘーゲル哲学から入った人でしたが。


竹田 デューイは大きくは、それまでの規律教育に対して民主主義的な教育の原理を強調した。

しかし近代社会とその教育の最も基礎的な原則を明確にはしていないので、ただ規律主義の反対として自由を与える教育を強調するという形になっている。

どこまで自由を与えればいいのか、それをどういう原則で決めるのかという点がつねに曖昧になる。

相互承認という大原則と、これを基礎とした市民教育ということが明瞭でないと、「自由」という概念自体が生きてこない。


苫野 『経験と教育』(→解説ページ)という本におけるデューイの自由論は、結構イケてるんですが。

ただどうしても原理的な深さが足りない。デューイの哲学を「自由の相互承認」の原理で支えれば、彼の理論が生きてくるというのが僕の考えなんですけどね。