道徳は学べるのか、教えられるのか
竹田 少し基本にもどって考えると、道徳というものの最も基本の契機は、共同生活の中で、われわれが必ず必要としている、同情とか憐憫、共感、困ったときに助け合う、といった感性をいかに育てられるかということだよね。
これは万古不易のことで、人間の社会は大昔からこの感受性を少しずつ育ててきた。
親和的な共同生活においてこの道徳的感受性、道徳感情を欠けば、人間の生活はひからびてぎすぎすしたものになる。それがなければ誰も豊かに生きられない必須のものです。
ただ難しいのは、それは教えられるか、学ぶことができるか、ということだね。
プラトンの『メノン』(→解説ページ)で同様の議論があるんだけれども、私の答えは、道徳は共同体的な同情や憐憫、共感という感情性は、ただ関係のうちで育てることができるだけで、知識として教えることはできない。
それを育てるのはやはりまず家庭、そしてつぎによい友だちの関係です。道徳は掟を教えることではなく、道徳感情の育成の問題です。
このことを、ルソーも『エミール』(→解説ページ)ではっきり言っている。
ただ、教えるべきことがまったくないのではない。倫理についての教育があるとすれば、まず近代の市民社会がどのような本質において成り立っているか、そこから始めることが大事です。これは教えられるからね。
すなわち「相互承認」がわれわれの社会の基本であること、他人の自由を侵害しないという意志において、実は自分の自由が守られているということ、その共通の意志で社会の営みが支えられていること、このことは教えられる。
ただこのことの理解を深めるのは単なる知識ではなくて、われわれが教養と呼ぶものです。
道徳的な人間になりなさいではなく、さまざまな人間がどのようにしてその生き方を模索したか、それを知ってゆくのが教養ですが、近代における教養の源泉は、哲学と文学と芸術(表現的文化)です。だから道徳的な教育の中心は教養教育として教育の中心に入っているのでないといけない。
基本的なことを言えば、家庭環境の条件が悪いと、人に対する防御性や攻撃性が高くなり、親和的な同情とか憐憫とかは育ちにくく、他人への共感力が低くなってしまう。
このことは他人を思いやらないというより、むしろ本人にとって大きな重荷なんです。この初期条件の比重がきわめて大きいことはいうまでもない。
近代の教養教育の大事な本質は、誰にもそういった初期条件の大きなハンデを自分で考え直し、この条件をリセットできる可能性を与える、ということです。
だから道徳を教えるという考えはやめて、教養を育てる。これはできるしとても大事なことですね。
苫野 今、竹田先生がおっしゃったように、家庭やコミュニティの中で自己承認感をズタボロにされると、他者を承認することもできなくなってしまう。ですから、僕はいつも、教育は承認の最後の砦であってほしい、あるべきだと言っています。
相互承認には三つの契機があって、まずは自分を承認できること、次に他者を承認できること、そして他者から承認されること。
この三つの契機が必要だと思っているのですが、やはり一番重要なのは、自己承認ですね。これをズタボロにされると、もう相互承認どころではなくなりますから。
教育は「自由の相互承認」の土台であるという原点に立つ以上、これは教育がきちんと守らないといけないものだと思っています。
となると、立てるべき問いは、「ではどうすれば、しっかりと自己承認の土台となり、相互承認の感度が育めるような教育環境を整えられるか」になると思うんですよ。
竹田 全く賛成です。
ただ、それでもなお、何か道徳教育ということをやるのならばーー僕は市民教育(シティズンシップ教育)と言いたいと思いますがーーその中身は、先ほど先生がおっしゃられたように、教養。
教養というと、日本語ではたくさん知識があることみたいな響きがありますが、ここで言う哲学的な意味での教養は、人が自由に生きるために重要な知識や感度ということ。
その一つの根本は、まさに、近代社会とは何か、ですね。それは「自由の相互承認」から成り立つ社会であるということ。そしてそのために、異なる価値観やモラルを持った人たちが、なお互いに承認し合い共存するために、「ルール」を作り合う必要があるということ。
ルールと言うと、日本人は自由を縛るものといったイメージを持ちがちですが、それは全くの逆です。
異なる他者同士ができるだけお互いの自由を認め合い、争いにならないために共に作り上げるのがルールです。
だから教育で重要なのは、ある特定のモラルを教えることではなく、異なるモラルを持った者同士が、ルールを作り合う経験をすることなんですね。
竹田 うん、だからさ、もう「道徳教育」という言い方はやめたらどうかな。「倫理教育」というのが響きもいいし、そのほうが広がりがあると思うね。まあこれは余談だけど。
苫野 でも、それはすごく重要なことです。しばらくは道徳教育という名前を変えられそうにありませんが、せめて、道徳教育という枠組みの中でも、相互承認の感度を育む教育、ルールを共に作り合う経験を重ねる教育のあり方を、訴えていきたいと思っています。
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