相互承認の社会を目指して
そこを欠いてしまったら、もうどんな道徳も道徳とは言えないと思うんですよね。それは単なる「徳の騎士」です。
竹田 それは本当にその通りですね。ただひとつ言うと、「相互承認」という概念を考えるとき、二つのレベルがある。
近代社会は個々人の自由の相互承認の基礎の上に成立している。互いに自由な競争を認め合いその成果も認めあう。つまり社会的な普遍承認ゲームにおける相互承認で、これは「法」というレベルで確保されている。
しかし相互承認のもう一つのレベルは、具体的な生活の中での人間どうしの相互承認です。
ニーチェがうまく言っているけれど、相互承認は対等な力関係がないところではなかなか成立しない。(→ニーチェ『道徳の系譜』『権力への意志』『ツァラトゥストラ』等の解説ページ)
すなわちわれわれの社会的な実生活では、優越感をもったり、ルサンチマンを抱いたり、敵対したり、挫折したりする。法の上では対等だけど、人間生活ではさまざまな力関係の中で競争しており、親和的な共同性の中で成立するような共感、同情、憐憫はとても限定的です。これはむしろ人間的な「相互了解」ですね。
要するに、社会的「相互承認」は普遍競争の相互承認であって、これは、互いにゲームの仲間として了解しあう「相互承認」とは、社会的な競争原理が強くなるほど背立的な関係になる。
われわれは互いに自由な競争のゲームを承認しあっている。しかし同時に、みなの一致した意志で、暴力原理を排除してこの自由な競争ゲームを営んでいる。これがメンバーシップとしての相互承認、いわば「友愛」の相互承認です。
私はヘーゲルの「人倫」の概念は、このメンバーシップとしての相互承認として考えるのがいいと思う。
ただし「メンバーシップの感覚を育てよ」、は単なる要請では無理で、実社会の競争原理が大きくて、学校で学んだ「相互承認」の感度のズレが大きいほど、「相互承認」なんてものはただの絵空事だ、ということになってショックを受けたりする。
個々人のメンバーシップの感覚の成熟と、現実社会の過大な競争原理を縮減していく展望が一つにならないと、道徳性をもてとか、公共心を育てよ、は、単なる要請論になって空しい抽象議論になりますね。
苫野 そうですね。これはもう社会構想と教育構想を対で考えていかないといけないという話ですよね。残念ながら、教育界にはこの発想が非常に弱い。
ちなみに、先生は競争社会とおっしゃいましたが、それが1本のゲームになってしまっていることが大きな問題だと僕は考えています。社会や教育の在り方としては、いかに多様なゲームを作り出していくかということがまず一つあるかなと。
竹田 教育を考える場合は、近代社会の本質とそれが成熟してゆくための大きな展望を考え、この土台から教育の具体的な目標とそれを実現するための諸条件を取りだしていく、というのが教育論の展望のビッグピクチャーだと思う。
その土台なしに教育のことを考えても、色々な教育観が出てきて、けっして合意が現われない。でもこれから、若い世代の先生方が近代社会の根本原則や教育の本質をしっかり身につけていけば、きっと変っていくと思う。
もちあげるわけではないが、苫野君には、この教育世界における哲学的基礎づけの旗手として、これからもいっそうがんばってほしいです。
苫野 ありがとうございます。はい、特に公教育は、市民社会の一番の礎ですからね。
(完)