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2014年8月29日金曜日

【対談】竹田青嗣×苫野一徳③〜ポストモダン思想を乗り越える〜



〜ポストモダン思想を乗り越える〜

竹田: 私の『人間的自由の条件』という本の力点を自分なりにいうと、近代哲学者たちが考えた哲学的原理をもういっぺんすべて掘り出して、その意味をはっきりさせることで、社会論を一からやり直そうということでした。

 その背景をちょっとだけ言います。

 私は二十歳代の頃、マルクス主義者でした。当時は、マルクス主義の思想が、世の中の矛盾を克服してその先に進める唯一の希望の考え方だと、ほとんどの人が思っていたんですね。

 けれども、だんだん、マルクス主義は資本主義を克服することもできないし、マルクス主義国家をも克服することもできないことがはっきりしてきて、非常に困っていたときに、フランスからポストモダン思想が入ってきました。そして今度はこの思想が、私の世代だけではなく、少し下の世代にとっても新しい希望の星になった。

 マルクス主義の、いわば教条主義的、権力主義的なところを批判するだけではなくて、資本主義をも違う仕方で徹底的に批判するような考え方を出してる。これはすごい、というので、私も30ぐらいからその思想にかなりのめり込んだ。

 ただ、私の場合、ちょうどそのころ現象学にはまっていて、現象学は近代哲学の根本総括といえるような考えですから、その点で、少しずつポストモダン思想を距離を取ってみることができた。

 ポストモダン思想の一番大きな原理は、方法的にいって論理相対主義あるいは価値相対主義です。

 これが分かるのは、近代哲学の認識問題が入っていたからで、そうでないと、ほとんどの人はポストモダン思想の方法原理とかいっても分からない。ともあれ、ポストモダン思想は、論理相対主義をフルに活用して、マルクス主義の思想も、資本主義の制度も間違ってるということを主張した。

 それには一つ中心点がある。

 資本主義が矛盾に充ちていることは多くの人が知ってる。なのになぜ資本主義はどこまでも倒されないでいるのか、そこには秘密があるはずだ、というのがその中心の問いかけになっている。

 それで、フーコーやドゥルーズが工夫して出した答えはこうです。

 ちょうど昔、専制的国家と帝国が支配していた時代、ほとんどの人々が神という大きな権威、また神によって与えられた王という権威を信じていた。そういういわば根拠のない幻想的な権威を信じていたので、専制国家と帝国の体制が何千年も続いてたわけですが、資本主義でもじつはそれと同じことが起こってる、と言ったのです。

 まずわれわれは、お金という実体のないものを実体的な価値だと強固に信じている。それから人間はみな自由であり、社会がそれを保証しているというのも、じつは実体のない幻想にすぎない。

 そういう近代社会のイデオロギーじたい、実体のない幻想にすぎない。しかし現代の資本主義は、人々をそのような幻想を信じこませるシステムになっている。そこで自分を主体と考えているが、じつは支配に従属しているにすぎない。

 だから資本主義は、いつまでたっても打ち倒されないんだ、そういう理論をポストモダンの思想家たちは、必死になって作り上げた。

苫野: ものすごく卑近な例で言いますと、僕たちは自由な意志によって、この車がほしいとかこのブランド物が欲しいとか思ってるけど、実はそれは資本主義のシステムが、そのような欲望を僕たちに与えているんだと。

 つまり、君たちは自分を自由だと思ってるけど、ほんとは自由じゃないんだよというようなイメージを、ポストモダン思想はたくさん量産したんですね。そしてそれは、確かに多くの人にリアリティを与えはしました。

竹田: しかし、哲学的に吟味すると、この理論はまったく間違った理論です。それは成り立たない。

苫野: まさに。どれだけリアリティがあったとしても、原理的には検証しようのないイメージですからね。

竹田: まさしく原理的に検証できない。もう少しいうと、二つポイントがあります。

 たとえばかつてマルクス主義がつねに「イデオロギー」の議論を出した。つまり「これこれの考え方は、ブルジョワ的支配体制を擁護するためのイデオロギーにすぎない」と。

 この言い方でマルクス主義は敵対するどんな理論や思想も批判することができた。「イデオロギー」とは誤った世界観に支配されている、ということです。

 マルクス主義がそう主張したのは、「社会主義」の考えこそ唯一の正しい社会思想だという前提があるからです。

 しかし、哲学的には、この批判が成り立つには、社会主義の考えが唯一の正しい世界観だということが万人に認められている、ということが前提になる。もし、そうでなければどうなるか。
 

 お互いに、君らの考えは「イデオロギー」にすぎない、と言いあうことになる。それはつまり、構造的に、宗教の宗派の論理となるわけです。

 ポストモダン思想は、社会主義という絶対理論をもっていない。その代わりに持っているのは、すべての理論は相対的でしかない、どんな理論もその正当性を主張できない、という論理相対主義の原理です。

 だからいまある思想や制度を批判できるけど、ではこう考えるべきだ、という思想によってではなく、どこまでも、それっておかしいのではないか、という言い方によってです。批判の根拠が、相対主義でしかないという点、これが一つ。

 もう一つは、制度の幻想性の批判ですね。

 幻想性の批判が成り立つには、大事なポイントがあるんです。たとえば、宗教は、その観念を変えれば、キリスト教をイスラム教や仏教に置き換えることができる。この点で、ある社会の宗教が、キリスト教でないといけない理由はない。

 しかし宗教自体を取り払うことできるかというと、少なくとも昔の社会条件では不可能です。個々の宗教の教義は幻想的だけど、人間社会が宗教をずっと生み出し続けてきたことは、本質的、必然的であって、それは幻想だといってなくなるわけではない。

 お金も同じです。紙幣は数字を印刷しただけで、なぜみながそんな幻想を信じているのか、ということは可能だけど、お金は、人間が欲望を普遍的に交換しあっていることの結果として成立している一般価値で、動かしがたい信憑なんですね。

 ポストモダン思想は、社会の構造というものの本質を考えないで、これをすべて幻想だという言い方で批判した。これでは先に進めない。要は、相対主義からは考え方の原理は出てこない。どこかでこの批判方法から離れて、新しい考え方を作り出す必要がある。

 多くの人がそのことにうすうす気づいていたわけだけど、私は近代哲学を全部読みなおしてみたときに、ここには社会をどう変革すべきかについての原理の可能性があると思った。

 でも、現代は、近代哲学がほとんど理解されていない時代なんです。そこをはっきりさせたいというのが『人間的自由の条件』の狙いでした。

苫野: 相対主義というのは、論理的には非常に強力な武器なんですね。

 相対化っていうのは、ある意味議論には負けない無敵の論法なんですよ。というのも、誰かが何か主張してきたときに、「ほんとにそう言えるの?」「絶対にそう言えるの?」「それ絶っっっっ対にそうなの?」って言い続けると、負けないんですよ(笑)。

 そう言われると、「えっ?まあ絶対かって言われると……ちょっとわかんないな」みたいになって、議論に負けることはないんですよね。

 だから、「君は今自由と思ってるかもしれないけど、ほんとに絶対に自由っていえるのか?」みたいなことを言われると、「うっ」となってしまう。

 こうした帰謬論法って、古代以来ものすごく多様なバリエーションを持っていて、ポストモダン思想もこれを非常に洗練したんですね。もちろん、ひと口にポストモダン思想がとまとめてしまうのは乱暴ですが。

 ただ、特に若者とかは、こういうのにハマりやすいんです。自分が偉くなったっていうか、強くなった気分になるんですね。議論には負けないし、強力な武器を手に入れたので、カッコいいことを言えるわけですよ。いろんな難しい言葉を使って。

 竹田先生は、80年代ごろ、ポストモダン思想が大隆盛してるときから、「それってやっぱりおかしいんじゃないか」と孤軍奮闘されていました。

 でも、さっき僕たちには少し違いがあるってお話もありましたが、僕らの世代になると――といっても、まだやっぱりポストモダンが非常に強いので、なんだかんだで少数派だとは思うんですが――もうポストモダンの時代は終わったという感覚がかなりのリアリティをもってあるんですね。

 これも、哲学をしっかり勉強すると見えてくるんですが、いつの時代も、なにか大きな価値が崩壊したあと、必ずポストモダンみたいなのが生まれてきたんです。

 たとえば大きな宗教戦争の後には、宗教の価値がゆらぐので、相対主義が必ず生まれ力を持ちました。

竹田: 歴史的にいえば、相対主義の方法で大きな役割を果たしたのが、たとえば仏教哲学の中観派

 それまでの小乗仏教が、ブッダの教えを理論的に膨れあがらせて、スコラ哲学的に権威化してしまった。この体系を徹底的な相対主義によって解体し、ブッダの教えの真をもういちど建て直そうとした。

 ギリシャのソフィストも、ソクラテスプラトンには批判されてるけれども、ある意味で形而上学化した哲学議論を、ギリシャ的な人文教養へと置き直すような役割を果たしたので、ここには一定の意味もあった。

 それから、中世のキリスト教の哲学を解体するときにも、はじめに相対主義的な懐疑主義がやっぱり出てきたんですね。それも一定の役割を果たしている。

 でも、最後は、相対主義的な懐疑主義ではなく、デカルトの原理の思考が新しい哲学の出発点となって、それがキリスト教の教条主義を打ち倒したわけ。
 
 20世紀、マルクス主義が教条化したあとに、ポストモダン思想がこれを相対化する新しい思想として出てきて、もちろん一定の大きな役割は果たしたのだけど、でもやっぱり、つぎに普遍的な原理の考え方が出てこないとほんとうの意味で先に進むことはできない。

苫野: 今がその時代だと思います。

 哲学史を見てとても強く思うのは、相対化っていうのは、ある意味簡単にできるっていえばできるんですよね。「絶対じゃない、絶対じゃない」って言えばいいだけなので。

 でも、本当に歴史の風雪に耐えたのは、いつの時代もそれを乗り越えた哲学だったと僕は思います。

 デカルトは、懐疑主義者・相対主義者のように、とりあえず全部疑うっていうのやりました。たしかなものなんて何もない、何もないって。この世界だって、もしかしたら夢かもしれないって疑えるし、と。

 でも、その懐疑の末に、これを疑ってる私だけは疑えないよねと、ついに相対化しきれない地点にまで到達した。これが有名な、「我思う、故に我あり」ですね。

 ただ、これはまだちょっと中途半端だったんですね。なのでこれをフッサールがもっと洗練するんですが、ともかくそういう形で、なるほどここまでなら言えるっていうところを出すのが、哲学の非常に優れた原理の考え方だと思いますね。

竹田: そうした原理をさらに吟味して強力で普遍的なものにしていくリレーが、近代哲学では続いた。でも、そういう営みが、いまは世界中で埋もれてしまってる。

 私の哲学の盟友に西研という哲学者がいますが、もう20年ほど前に、二人でヘーゲルを徹底的に読み直そうということになった。

 はじめは二人ともヘーゲルに否定的で、それは時代の通説になじんでいたからです。しかし読んでいるうちに、二人とも、これはすごいぞ、という感じになってきた。

 ヘーゲルのこういう考え方の原理、遡るとルソーとかホッブズのこういう原理の考え方は、現代のヨーロッパ思想でもほとんど理解されていない。いわんや日本では。

 で、やはりこれは二人で、なんとかヨーロッパ哲学の理解をもう一度立てなおす必要あるね、ということでこれまでやってきたんですね。

 だから、新しく哲学に入ってきた人には、一般説をちゃらにして、もういちど自分で徹底的にどういう説かを確かめるように言うんです。

 ヨーロッパの近代哲学は、マルクス主義とポストモダン思想の終わったあと、もういちど再生されないといけないし、そうなると思います。

苫野: 竹田先生の存在は、実はかなり異端なんですよね。ご存じの方も多いかもしれませんが、いろんな意味で竹田先生はアカデミズムでは異端として迫害されてきました(笑)

 でも、僕も現代の哲学をいろいろ読み込みましたが、竹田先生の哲学には、21世紀の哲学たりうる哲学史上の理由があると確信しています。そして僕らの世代が、その次のステップを展開するべきだというふうに思っている。

 で、竹田先生は、80年代から孤軍奮闘されてたということもあって、ポストモダン思想などをこてんぱんに批判されたりしてるんですね。

 でも僕たちの世代は、まあ批判はそこそこに、次を作ることに集中できる気がしています。

竹田: その言い方で、きっと若い人に届くんだろうなと思います。

 苫野くんのメッセージはすごくシンプルで、社会の原理は「自由の相互承認」。つねにここから問題を考えていこう、と。もうマルクス主義とかポストモダン思想がどうだったかは考えなくていいよ、ということだよね。

その④へ)