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2014年8月29日金曜日

【対談】竹田青嗣×苫野一徳②〜「自由の相互承認」という原理〜


〜「自由の相互承認」という原理〜


竹田: 今回の苫野くんの本について、議論したいんですが、じつは、8、9年間、ずっといっしょに、ここで書かれているヘーゲルフッサールを中心として勉強してきたので、あんまり異論がなくてちょっと困ってるところなんですが(笑)。

 基本の考えはそんなに違わないんですよ。違うところはあとでまた話をしたいと思うんですが。

 まずこの本の感想を言わせてもらうとですね、やっぱり一番中心にあるのは、「自由の相互承認」というキーワードかな。

 これは元はヘーゲルの『精神現象学』の「相互承認」といういちばん大事なキーワードですね。それを私がちょっとヘーゲルの意を強調して、「自由の相互承認」というふうに言い直しました。

 彼は、この「自由の相互承認」に焦点を当てて、ここに、いわば未来の哲学の、あるいは未来の人間社会の一番大事なキーワードがあるとマニフェストした。

 このことについては、私も多少言ったんですが、苫野くんは非常に声を大きくして、いまこれを根本原理として立てて哲学を展開していけば、現代社会がもっているいろんな問題も解けてくるということを、ハッキリと言ったと思います。

 この焦点の絞りかたが、いかにも彼らしいところです。それで大変納得したんですね。

苫野: お読みになってない方もいらっしゃると思いますので、ほんの少しだけ「自由の相互承認」について説明させてください。

 僕たち人間は、必ず「自由」になりたいという欲望を持っている。ヘーゲルはそう言うんですね。ただこの自由をどう捉えるかが難しいので、それについてはまたあとでお話します。

 いいや、人間は本当は自由を求めないこともある、という議論もあるんですが、僕の考えではそれは表層的です。しかしそれはひとまずおいておいて、とにかくヘーゲルは、とりあえずみんな「生きたいように生きたい」と思ってしまうよね、と言うんです。

 生きたくないように生きたいって人いないですよね(笑)。生きたいような生き方は人それぞれ違うけど、でもとにかく人は、みんな生きたいように、つまり自由に生きたいと思うんだ、と。

 ところが、この欲望があるがゆえに、人間は戦争をなくせないんですね。

 動物だったら、戦ってリーダーが決まればそこで戦いは終わるんですが、人間は自由になりたいので、自由を奪われたら多くの場合戦うことになる。だから、人間だけが戦争をなくせない。

 じゃあどうすればこの戦争をなくせるのか、そしてみんなが自由に生きられるのか。その答えはそれまでにも無数に考えられてきたんですが、ヘーゲルがいった原理はシンプルで、みんなが自由になりたいんだってことを、とりあえずお互いに認め合うしかない、と。そしてその上で、調整するしかない。これが、僕たちが自由に生き、また共存するための根本条件だとヘーゲルは言ったわけです。

 言われて見れば当たり前なんですが、このことに気づくまでに、人類は1万年の殺し合いを重ねてきたんです。そしてまだわずか二百数十年前に、この「自由の相互承認」の考え方が、ルソーやヘーゲルから出てきたんですね。

 これは非常に優れた原理だと思います。そして言われてみれば当たり前のはずなのに、意外にまだあまり気づかれていない原理でもあるんです。

 だから、これもあとで言いますが、今自由にはすごく疑念があって、もう自由なんていらないんじゃないかとか、自由じゃない責任だとか、大義をだとか、そういう新しい思想が生まれてきてるんですね。

 でも僕は、いやそれは違う、みんなが自由に生きたいのであれば、「自由の相互承認」を原理とした社会を作っていく以外に道はないんだということを、改めてちゃんと置かなきゃいけない、そう考えているんです。

 この原理をまず出して、じゃあそのために社会をどう作るのか、あるいは、自由に生きるための実存的条件は何なのか。そういった話をこの本には書きました。

その③へ)